映画『oasis:ドント・ルック・バック・イン・アンガー』は、2025年のリアルなoasisを映し出すドキュメンタリーだ。便宜的に過去の映像が用いられてはいるが、ノスタルジーの要素はほぼない。いい感じのノイズがのった映像データが絶妙なコントラストを生んでいる。リアム・ギャラガーの圧倒的な存在感は劇中リハーサルシーンにおいて、観ているこちらが緊張してくる。凄まじい臨場感だ。
oasisはなぜこれほど支持されるのだろう。ノエル・ギャラガーが「俺たちは若い世代にも刺さっているらしい」といったコメントをしていた。等身大のファッション、アティテュードとともに、1994年に登場し、労働者階級出身であることをロックンロールで表現し、それはかつてのブルース・スプリングスティーンのようであり、すべては「共感」にあった。「おれたちの代弁者だ」という共感。「自分の人生は、これでよかった」と思わせてくれる力があり、煌びやかなことやフィクションを歌うことはなく、説教を垂れることもない。自分が成功したかどうかとは別に、あの曲を大声で歌っている間は、自分の人生を肯定できる。それが90年代を生きたファンの涙につながっているのではないか。
「リアムのアティテュードは現代のパンク」だと思う。観たらわかるが言葉が汚く、それはもうハラスメント級だ。しかし人はそれを求めているようにも見える。本当のことをいってくれる兄貴。パンクを音楽のジャンルというより、他人に承認されるために自分を作り替えない態度として見るなら、まさにそれだ。暴言まで肯定する必要はないが、評判を気にして言葉や振る舞いを調整することが当たり前になった社会で、あの不器用なほど変わらない姿には、もの凄い引力がある。多様性だとかインクルーシブという価値そのものとの対立ではなく、「誰に対しても感じよく、正しく見せなければならない」という空気への反発に近い。リアムの「お前はお前でいろ」と言ってくれるようなところが心にすっと入ってくる。ロックンロールだけど、人の心にやさしく入ってくるパッションがある。弱いものの気持ちがわかっているような。リアムは変わらない。歌詞やメロディ、ロックンロールのグルーヴだけではないoasisの魅力はそれだ。あの尊大な姿と、曲の中にある傷つきやすさの組み合わせ。oasisには強がりもあるけれど、孤独や退屈、そこから抜け出したい願いもある。リアムが歌うと、それがきれいに整理されないまま届く。弱さを隠したまま、弱い人に届く歌、曲、メロディなのだ。
90年代のファンも、単に青春を懐かしんで泣いているだけではなく、2025年の今の自分と向き合い、涙しているのだ。あの頃には知らなかった別れや挫折、仕事や家族の時間を重ねて、当時の自分とは違うライフステージにいる。しかしLIVE ’25はあの頃の自分に戻してくれた。曲は変わっていないのに、自分が変わったことで、以前より深く響く。その場で隣の人も歌っていると、自分だけの記憶が、誰かと共有できるものになる。 だから、彼らの人気は懐メロ、ノスタルジーではない。誰でも歌えるメロディーと、誰にも代わってほしくない声。 その二つがそろって、世代を超えたファンの表情がこれでもかと映し出される。親子でoasisを観にやってきて涙している。人生が複雑になっても、数分間だけ、声を出すという単純な行為に戻してくれる。これがロックンロールのパワーなのだ。
「スマホを置け。朝起きて仕事しろ。人の役に立て。」みたいなことを劇中でリアムが言っていたと思う。「Champagne Supernova」とともに頭の中でずっと鳴っている。
